凄まじい、なんていうもんではなかった

先日八杉康夫さんの講演会を聴きに行った。この方は戦争中、戦艦大和に乗船されていて、奇跡的に生還された人物である。

大和はご存じ、1945年4月7日に、沖縄に向かう途中で米軍の攻撃を受けて沈没した。乗組員3009名中、生還できたのは276名だそうだ。

八杉さんは当時17才。15才の時に志願して海兵団にはいった。

その大和は1000機を超す米軍機の波状攻撃で、なすすべなく約2時間の戦闘で沈んだ。レイテ沖海戦戦艦武蔵が沈没するのには9時間かかっている。理由は両舷側からの攻撃であったため、バランスが取れてしまいなかなか沈まなかったとされる。米軍はこの時の教訓を生かし、大和の左舷側を集中的に攻撃したのだ。魚雷8発のうち7発が左舷。結局バランスを崩した大和は2時間で沈んでいった。

4月7日の天気は曇りだったそうだ。よって米軍機が視認できない。曇天の雲の間から、次々と米軍機が大和の前に現れ、攻撃しては雲の中に消えていく。もうどうしようもなかったんだそうだ。

沈没後、海に投げ出されてからのお話しも凄まじかった。よくその状況で生き抜くことが出来たものだ。

八杉さんは溺れそうになりながら、海面に出たときに思わず「助けてぇ!」と叫んだそうだ。帝国軍人として、最も口にしてはイケナイ言葉だ。ハッと、自分の左後ろをみると、木に掴まって浮いていた上官がいた。八杉さんは「怒られる!」と思ったのだそうだ。しかし上官は「こっちこい!」といって八杉さんを木に引き寄せて救ってくれた。上官からは、「若者には未来がある!頑張って生き続けろ!」といわれたそうだ。我々の印象だと、「天皇のために戦って死ね!」というのが軍人という印象があるのだが、八杉さん曰く、それは陸軍の話で、海軍では「生きろ!」と教わったのだそうだ。

そこから長い漂流(八杉さんは”地獄の漂流”とおっしゃっていた)の末、ついに別の船に助けられたのだ。上からロープのついた浮き輪が投げられ、八杉さんはそれを体に通した。そのときにハッと、上官の顔をみた。そしたら「行け!」と合図されたのだそうだ。甲板に引き上げられて、フッと下を見ると、八杉さんを助けてくれた上官は、浮き輪につかまることなく、大和のほうに向かって泳いでいき、そのまま消えてしまったんだそうだ。


他にも様々な、そして大変貴重な、そして悲惨で凄まじいお話しを聴かせていただいた。そういう体験を通して八杉さんは「平和ってなんだろう?」てことを訴えて現在も各地で講演されている。

このようにおっしゃっていた。

「我々は、あの戦争の時に、平和のためにといって武器をもって出かけていった。でも平和ってそういうことでしょうか?平和というのは”共生”すること、共に生きるってことではないでしょうか」