突然ですが次のQ&Aを読んで下さい。
Q 延喜8年(908)周防国玖珂郡玖珂郷(現山口県岩国市)の戸籍には、339人の名前が載っていますが、そのうち243人は女性です。徴税の基本台帳である戸籍に女性の名前が多く、男女の割合に偏りが生じていたのはなぜでしょうか?
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A 男性の数が少ないのは、古代の税のうち調(ちょう)・庸(よう)・雑徭(ぞうよう)は17歳以上65歳以下の男性を対象とする税であったことから、男性のみにかかる負担を逃れるためと考えられています。
戸籍は、戸を単位とした課役、身分の把握、兵士の徴発、班田収授などの基本台帳でした。大宝律令が施行された直後に作成され、現存する最古の戸籍である702年の戸籍(御野国加毛郡半布里)には、1,090人のうち女性549人・男性541人と、ほぼ1対1の人口比で記されています。当時の戸籍の作成は、9世紀には形式的なものとなり、10世紀には形骸化していたといわれています。
周防国の例でも実態とはかけ離れている様子がうかがえるでしょう。戸籍に記された名前の中には、明らかに男性の名を偽って女性名としたと思われる例すらあります。
いつの時代も申告と納税は正しく行いたいものです。
さて上のやりとりは某サイトからの引用ですが、どのサイトかは最後に明かすとしましょう。
10世紀の初め、三善清行という人物が醍醐天皇に提出した「意見封事十二箇条」を覚えてるでしょうか?
律令制の衰退の原因と対策を述べたものです。その中には備中国邇磨郷(にまのごう)における課丁(調庸を負担する男子)の人数がどんどんどんどん減っていく様が書かれています。つまりは戸籍による人民支配が崩壊してることがわかる史料です。
史料によるとこんな感じです。
1.斉明天皇の時代の660年(百済が唐と新羅連合軍に滅ぼされた年ですね)
この地域から兵士を20000人集めることができた。
そのことから二万郷(にまごう)→邇摩郷と名付けた、ということのようです。
2.称徳天皇の時代の天平神護年間(765〜766年)
課丁は1900余人に減少。
3.清和天皇の貞観年間(859〜877年)課丁は70余人に減少。
2万人も兵士がいたのに300年の間に0人になってしまった!なんてことはにわかに信じられませんね。
つまりこれは偽籍が行われているわけで、戸籍による支配が崩壊していて政府が人民把握できなくなっていることがよくわかります。
そして次第に政府は課税対象を人から土地へとシフトさせていくわけです。。
さて、冒頭で紹介したサイトですが、最後の一文が大ヒントです。
いつの時代も申告と納税は正しく行いたいものです
笑ってしまった。